「深海」「BOLERO」
Mr.Childrenにとってこの2枚のアルバムは、間違いなく大きなターニングポイントであり、彼らの音楽を語るうえで外せない作品だ。
『深海』と『BOLERO』はアナログとデジタル、深さと広がり、コンセプチュアルとベスト、
相反する言葉が表す作品をリリースする事により、聴き手のピークと今のMr.Childrenに決着をつけるという意思の表れだ。
結果としてマスに訴求しながらコアも追求し、多くの物を僕らにもたらしてくれたこの2枚。
改めて深く聴いてみる。
「深海」のフィクション性
「深海」はセールス的にも象徴的にも、彼らの中で意味のある作品という位置づけで間違いない。
この深海を巡って桜井和寿は常に自問自答し、もう一人の自分を取り戻す(認める)事に多くの年月を割いたと考える。
本人が認める様に「Q」の潜水士を模したジャケットは、深海からの浮上を表現している。
その後ポップザウルスにて彼らが深海から浮上を試み、もう一度ポップミュージックと対峙する様を僕らに見せつけた。
だがこのポップザウルスは「シーラカンス」~「深海」をまでの繋がりを、一つの演出として採用しているだけであって、実質的に深海から完全に脱出するまでには至っていない。
なぜなら「優しい歌」で唄っているように、彼は深海期の自分に対して「復讐を誓う」という言葉でもって、その存在に触れているからだ。
復讐は負の心であり、何より自分を認めていない気持ちの表れだ。
その心はポップ再検証の流れに乗って柔らかくほぐれていき、HOMEスタジアムツアーの「口笛」で歌い手と聴き手の境目が無くなったカタルシス、そしてもう一人の自分が登場するアンコールの「innocent world」「Wake me up!」「旅立ちの唄」によって、ようやく憎むべき存在としてではなく、自身を許容する様になったと考える。
ここからMr.Childrenは完全に歌の中にエゴを無くし、聴き手の為だけの歌を歌い続ける事になる。
そしてSENSEのツアーで自分たちの歴史を総括するという試みを行い、本当の意味で深海から浮上し、自身の存在と対峙し解き放たれたのではないか。
ここに至るまでの発端は、全てこの「深海」と名付けられた1枚の作品によるものだ。
一般的な「深海」についてのイメージ。
それは、「Atomic Heart」で桜井和寿が精神的な自己意識の開放を行った事に起因する。
これまでの様な甘酸っぱいラヴ・ソングを唄うようなバンドイメージから脱却したいと望んだ(小林武史のプロデュース舵取りによる)桜井和寿。
巨大な音楽産業のうねりの中で日々忙殺されていく事で、精神を病んでしまった事が原因であり、音楽を楽しめなくなり自殺を考え狂気に満ちた時期だった。
そんな中で彼の内省的なイメージが投影された、アーティスティックな作品。
と、いう所であろう。
だが、本当にそうなのだろうか?
当人の気持ちなど、この記事を書いている一般人の僕が知る由もないし、それを否定する気も無い。
ただ個人的に「深海」は、アーティスティックなマインドから偶然流れで生まれた様な奇跡の一枚ではなく、作るべくして作られたという風に僕は考えている。
つまり、意図した作品。フィクションだ。
そんな事は当たり前だと思われるかもしれないが、やれ「深海」というと収録曲の実質的な力以上に過度に持ち上げられたり、神格化されている部分が多い。
だから僕はあのアルバムってのは―厳しく言っちゃうと、花と名もなき詩の評価であって。
ROCKIN’ON JAPAN 1997年6月号 桜井和寿インタビューより
神格化されているのは、当時の桜井和寿が抱えていたダウナーマインドからだ。
コンセプトアルバムとして充実した作品である事は間違いないし、僕もアルバムを通して聴いてその価値を感じる1人だ。
ただ、これは音楽の奇跡が生んだ偶然の1枚ではなく、彼が「作ろうとして作った」作品だ。
「自分の中のアーティスティックな気持ちっていうのは、たぶん僕の中にはあんまりないんだと思うんですけど。ただ、音楽的に次の次元に行けてるような、そういうところが嬉しかったんだと思うんですよね」
ROCKIN’ON JAPAN (ロッキング・オン・ジャパン) 2009年 01月号 桜井和寿インタビューより
そう、彼は上昇志向が強い人間だ。
100万枚売れるような曲が作りたいと考え、しっかりと「CROSS ROAD」を仕上げてくるあたりに、その芯の強さを感じる。
自分が認められたいという気持ちを持っていて、それが叶う方法として音楽というツールがあるならば、そこに対しては貪欲になるだろう。
「要は、すごくピュアなラヴソングはもう書けないじゃないですか。『そんなの嘘、不倫してんじゃん!』って。そのつっこまれる前に、このぐちゃぐちゃを吐き出してやろうっていう。」
ROCKIN’ON JAPAN 2009年1月号 桜井和寿インタビューより
深海は「ファンであり続ける為の踏み絵」とまで評された。
しかし何かに許されよう迷いもがいているのは、聴き手だけでは無かった。
彼は救われようとしている。
そんな気持ちから敢えて「深海」を作った。
自身が肉体的にも精神的にも狂気に流されながら苦しみもがき、成功も過ちも全てひっくるめて水に流したいと考えている。
彼の苦しみがリアルタイムで収められている故、深海はノンフィクションである。
そしてその苦しみから逃れようと、フィクション性のあるストーリーに昇華(消化)させている。
現実と虚構を、両面から認識できるような作品だ。
だからこの「深海」~「regress or progress」までの流れは、純粋な音楽への気持ちからくるストーリーではなく一つの儀式だ。だからこそ早く終わらせたかった。
だからこそ本当の自分を認めてほしかった。
そうでなければアーティスティックな物に憧れを感じない人間が、もう一人の自分をシーラカンスに喩えて救いを求めるとは思えない。
自分を分人化をし、もう一人の自分に苦しみや辛さを任せる。
それは本当の自分を守り、救われたいからだ。
この写真は、アメリカの芸術家であるアンディ・ウォーホルの作品『電気椅子』だ。
桜井和寿が自ら、アートディレクターの信藤三雄に「深海」のイメージとしてリクエストした物。
ウォーホルがこの電気椅子を発表した時代は、盛んに死刑執行倫理が議論されていた。
このアート作品を自ら提案する心情が、当時の彼の精神状態を如実に表している。
彼はまさに刑に処される時を待つ身であり、自身で足掻くことしかないできない状態。
そんな絶望と苦しみしかない時間を、ただ受け入れるしかない。
それはすなわち、裁きである。
彼は何を罪と感じているのか。
それは音楽への気持ちなのか、愛した人への後ろめたさなのか、自分自身への後悔なのか。
彼は「刑として見えないものに裁かれる」という選択ではなく、救済の願いを込めた「深海」を生み出した。
深海~活動休止までの行いをカタルシスとして消化し「自らの手で儀式として終わらせた」
それが、解散前に行われたツアーである「regress or progress」
桜井和寿は当然ながら、この深海についてはこれまで良いイメージを語ったことは無い。
この様な流れは聴き手にとってエンターテイメント性を含む要素が高いが、桜井和寿の他者を寄せ付けない内省がそれを許さず、結果として長いあいだ閉じられた印象を残した。
本当の意味でエンターテイメントとして彼らが消化したのは、自らの活動を振り返り深海をターニングポイントの一つとして赦せるようになったSENSEアリーナツアーだろう。
「regress or progress」で見せる深海は観客を突き放し終わらせた。
しかし「TOUR 2011 “SENSE”」で魅せた深海は、後の「HERO」で「僕ら 大人になったんだ」と歌いあげる。
歌い手と聴き手の垣根を越えて、人生のショーとして「深海」を認められた瞬間だ。
そこには自身で「作った」絶望を思わせる音楽ではなく、自然に「生まれた」希望の音楽があったのではないだろうか。
BOLEROに見る異常性
そんな深海の双生児である「BOLERO」
本来は20曲程度溜まったストックの中から、赤盤(BOLRERO)青盤(深海)と分けてリリース予定だった2枚の作品。
あらかじめ用意された曲がイメージによって振り分けられたという経緯からも、「深海」が桜井和寿の狂気をリアルタイムで抽出した様な純粋なストーリーから作らたものではなく、意図して製作された作品ということがわかる。
「深海」のアナログ感と相対するような、なんともRAWっぽくデジタル感がある音像。
ハードなロックサウンドに重心を置きつつ、合間に挟む聴き馴染みがあるポップを落とし込むことで、手に届く様で届かないカオス感がある。
小林武史はベスト盤要素が強いこの「BOLERO」に対して良い評価をしておらず、現象時に大量にドロップされたシングルをまとめたファンサービス的な側面が強い。
その為、売り上げも「深海」より50万枚程多い320万枚で、「Atomic Heart」に次いで彼らのアルバム作品で2位を記録している。
現象を追うファンはわかりやすく、踏み絵と称された「深海」よりも、このある意味でのギフトである「BOLERO」を選んだ。
しかし僕は、この「BOLERO」にこそ救いが無く、狂気を感じる。
むしろ意図して内省を表現した「深海」よりも、彼の心の内が顕著に表れていると考えるからだ。
物語の一曲目を飾る歌は「Everything(It’s you)」
そう、頭から「全て」と称した曲で始まるのだ。
この「BOLERO」には余白が感じられない。表現者の余裕が見えない。
度々画面に映る「眼」は、一体どんな景色を見ているのか。
シングルが所狭しと顔を出し、合間には過激なフレーズが散りばめられた楽曲や、社会や未来に何も希望を見いだせていない人間の言葉が並ぶ。
時が苦痛ってのを 洗い流すなら
タイムマシーンに乗って 未来にワープしたい
全部おりたい 寝転んでいたい
そうぼやきながら 今日が行き過ぎる
そう、彼はすぐにでもこの「今」から逃げ出したい。
肉体的にも精神的にも、自らを蝕んでいる苦痛から逃れたい。
だが足掻いても、時間だけは自らの手で動かすことはできない。
ただゆっくりと行き過ぎる今日をやり過ごすだけ。
連れてってくれないか
連れ戻してくれないか
僕を 僕も
「深海」までに得た地位や名誉は空虚な幻想で、とうの昔に憧れを捨て去った。
彼にとって今一番の望むものは苦痛からの脱却であり、それは地位、名誉、金では取り除くことはできない。
彼は決して抗う事はできないこの「時間」と対峙しなければならず、その救済をシーラカンスに託している。行きつく場所はどこでも構わない。
ただ、この虚無から自分を遠ざけてくれるのであれば。
一人の人間をここまで追い詰めてしまうきっかけとなった「Atomic Heart」こそやはり狂気であり、どうあってもこれ以前に戻れない事実がこの後十数年もの間、彼を苦しめる事になる。
そんな「Atomic Heart」以前の時代を支えてくれた当時の妻でさえも「幸せのカテゴリー」では、冷静に突き放す。
あくまで推測の域を出ないが、この歌詞は愛していた人に当てた歌詞だ。
当人同士にどんな軋轢があったかは知る由もないが、極めてパーソナルでピンポイントなメッセージを社会現象の最中であるバンドの楽曲として発表する。
仮に「この歌は君に向けた物では無い」と言われても、誰がその通りに受け取れようか。
この奔放である意味常軌を逸した行為が、本人の中で冷静に許容されている所に、当時の彼の精神状態を感じる。
時の苦痛さを表現した楽曲で、彼こう歌っている。
How do you feel?どうか水に流しておくれ
愚かなるこのシンガーのぼやきを
このアルバム名を飾っている楽曲である「ボレロ」で、彼はこう歌っている。
『君しかいない 君こそ未来』
言葉は皆 空虚 宙に舞うんです
夢、希望、自由、愛。
自身が歌う唄には何の意味も無い。
けれど歌う事で何かが終わり許されるのなら、どんな事でも吐き出したい。
しかしそんな彼の願いとは裏腹に、全ては無に還る。
進まない残酷な時間と共に、全てを受け入れるしか無い。
この「ボレロ」はフランスの音楽家であるジョゼフ・モーリス・ラヴェルのボレロから着想を得ている。
彼は音楽家として成功を収めながらも、晩年に記憶障害や言語症に悩まされた。
満足に手足を動かせなくなり、周囲との接触を避ける日々。
彼は次第に、庭にある椅子で一日を過ごすことが多くなった。そういった困難を抱える中で、彼のボレロは生み出された。
「自らに訪れる全てを受け入れ、自然であり続ける」
桜井和寿は「BOLERO」で、ラヴェルが持っていたこの思想に救いを求めた。
「ボレロ」のMVで椅子に座っている彼の姿は、あのラヴェルにはどう映ったのだろう。
彼は狂気と絶望のもとに、虚無の空にこの歌を唄う。
本能のまま自由にして
夜のベランダで 裸のまんまで暮らしたい
ひるむ事のない 想いは明日へと
続いてく 続いてく
彼が手を伸ばした先に
「BOLERO」の最後に収録されている楽曲は、彼らの最大のヒット曲である「Tomorrow never knows」
このアルバムはシングル楽曲を多く詰めたファンサービス的な作品として評価されている。
その為「Tomorrow never knows」は「ボレロ」である意味閉じた流れから、漏れてしまったボーナストラック的な印象が強い。
アルバム自体がデジタルサウンド要素が強いため、ひと昔前のサウンドイメージとしての違和感にも繋がってしまっている。
言うなれば、邪魔をしている楽曲だ。
しかし個人的にはこの「Tomorrow never knows」が最後にあるからこそ、アルバムにとって大きな価値を感じる。
「深海」から「BOLERO」で絶望に浸り、虚無の世界で自らを閉じてしまった桜井和寿。
だからこそこの楽曲のイントロが流れた瞬間、人々の時間は一瞬だけ過去に戻る。
この繊細で不安定な人間の心情を表現したイントロが、あの頃の彼らを想起させる。
対であるこの二作品の終わりがもたらす物は、虚無に手を伸ばす男の姿。
だからこそ、ほんの少しでも希望を感じてしまうこの楽曲を聴くことが、逆に何よりも絶望を強調する結果となる。
多くを手にしたはずの桜井和寿が苦しんでいた物。それは決して誰にも変える事の出来ない、時間。
その時間を少しだけ戻し、あの頃の彼の姿を想像する事ができる。
「深海」と「BOLERO」を共に聴くことで感じるフラッシュバック。
その瞬間にこそ、僕はカタルシスや多幸感を覚える。
時間や不自由という絶望の椅子から、彼が少しだけ手を伸ばす瞬間。
それがこの「Tomorrow never knows」だ。
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