次のポストMr.Childrenは?
彼らこそ新しい時代のポストMr.Childrenだ!
雑誌や各メディアでたまに見かけるこの表現。
もうやめろって。笑
ポストMr.Childrenって何だよ
③ 地位。部署。役職。 「重要な-につく」
POSTとは何? Weblio辞書
weblio辞書『POST』より検索結果引用
主に音楽シーンではこの表現で使われる。
まあフォロワーみたいなもんね。その人の表現を継ぐ役割の様な物。
こんな記事を見つけた
あいみょんがポストMr.Childrenと主張するこの記事。
え…?どういう事?
まず、彼女のルーツから考える必要がある。彼女の憧れの存在は浜田省吾。その佇まいから女性シンガー・ソングライターの系譜をイメージする人は多いと思うが、影響を受けたアーティストに女性の名前はほとんどない。
そして、同じく浜田省吾をルーツに挙げるのが{{Mr.Children}}の桜井和寿だ。所属事務所がロードアンドスカイだったことを考えるとスピッツも浜田省吾の影響下にあるバンドに位置づけることができる。
さらに、ミスチルにおける小林武史、スピッツにおける笹路正徳の役割を、あいみょんにおいてはagehaspringsの田中ユウスケが担ったと考えると、ミスチルもスピッツもあいみょんも「浜田省吾の影響下にあるソングライターとそれをモダナイズするプロデューサー」という組み合わせが共通している。
実際、「マリーゴールド」のコードとメロディの関係性には、スピッツ「チェリー」やMr.Children「Tomorrow Never Knows」と通じ合うところがある。すなわち、あいみょんを「ようやく現れたポスト・ミスチル、ポスト・スピッツの本命」と位置づけることができるわけだ。
ORICON STYLE あいみょん、ポスト・ミスチルの大本命に ルーツに浜田省吾あり 記事内より引用
はあああああああああああああああああああいいいちょっと待ったあああああああああああああああああああああああああ
え?え?ちょっと待って今の内容をまとめよう
今挙げられたこの記事内で、あいみょんをポストMr.Children言うべき理由としては
・浜田省吾の影響下にあるソングライターとそれをモダナイズ(現代化)するプロデューサー
・『マリーゴールド』と『Tomorrow Never Knows』のコードとメロディの関係性が通じ合っている
いやいやいやちょっと待てよこの2つの理由でポストMr.Childrenと言っちゃう訳?
「位置づけることができるわけだ」じゃないわ笑
そんなんレコード会社が今から売り出す若手アーティストに年老いた重鎮みたいなおっさんプロをつけるって基本無いだろ
モダナイズだかなんだか知らんけど偉大なる先人たちの感性をそのまま世に出す人間なんていない訳で、どんな物でも今の時代に合う様に自分のエッセンスを入れ込んでリスナーに届けるのが当たり前だのクラッ歌
しかもコード進行やメロの共通点があるだけってだけでポストって何?そんなんあり?
コードが一緒ってだけでポストにしちゃうなら代表曲のコードが似通ったジャミロクワイも椎名林檎もtofubeatsも一緒なんですねえ
今が稼ぎ時のあいみょんとネームバリューのあるミスチルを繋げたいだけの、大人のカテゴリ分類談義。
ポストなんて関係ない
はっきり言うと
ポストとかほんっっとどうでもいいよね
まず普通の人間は、音楽に関する会話で『ポスト』なんて聴いた事がない。
電車の中で「いや次のポストあいみょんはさあ」とか言ってるやつがいたら本当に寒気する
ポストって言葉だけでも違和感あるのに、その内容があいみょんって時点でお前のドヤ顔に正拳突き入れたくなる。
CDショップに置いてある色んな大人の手垢がつきまくった販促ポップ見て「あ!このアーティストってポスト椎名林檎なんだ!」って思って手伸ばすか?
そのポップの内容で信じられるのは、頑張ってサビ残して書いただろう店員さんの搾取されている労働力だけだ。
Just The Two Of Us進行使って有能な大人が囲んで等身大のキャラ全面に出せば何か洗練された人っぽく見えますか?
事務所が必死に椎名林檎の影響利用して宣伝してたあのバンドは結果どうですか売れてますか?調子はどうですか?
あぐら掻いて裸足でギター弾いて気持ちを押し潰された女性シンガーの路線をなぞった人たちは今どんな音楽鳴らしてますか?
自分の音楽を鳴らしたい人、売れたい人、売り出すのが仕事の人、評論するのが仕事の人、好きな音楽を聴きたい人、ブログにつらつら駄文書いてる僕。
色々いるだろうけどさ。
僕らリスナーはポストをきっかけになんてして音楽に触れない。
ポストなんて言葉は売上が欲しい大人と、何でもカテゴリ分けしたがる評論家だけの物だ。
本人が偉大な先人に重ねられてポストと形容されるのが、嬉しいのか悲しいのかは正直わからん。
自分が好きなら嬉しいだろうし、好きじゃないなら足枷なんだろう。
けど個人的な感情とは別に、会社や大人はその肩書きやカテゴリをセールスに繋げようと必死になる。
もっとポップ路線でいこう
今がリスナーに印象づける大事な時期だからもっと作品作れ
とりあえず裸足になってあぐら掻いてギター弾いてみたら?
こうやって人格が消されてポストに寄せる為の音楽になっていく。
売れたら売れたで「あのアーティストはポスト○○として世に出て…」といつまでもその名がついて回る。
人格を殺された挙句、その形容から逃れられない。
売れなかったら「ポスト○○と言われていたあのアーティストは今?」と、完全に期待に応えられなかったかの様な過去形。
勝手に評論家にポスト付けされて終わったらあの人は今みたいな使い方されて不憫すぎる。
いくら売り出す事が重要とはいえ、いかがなものか。
音楽を聴く僕らが求める物
ポストという言葉がメディアで踊る度に、大人のつまらない音楽談義にしか見えない。
触れる人がポツンと置いていかれる様な形容、不必要なカテゴリ分けにより意味の無い先入観で固められていく音楽の聴き方。
本当にそのアーティストの良さを伝えたいのなら、そのアーティストがどういった音楽を鳴らし、良さはどこなのかを伝えるべきだ。
勿論誰にだって影響されている物はある。音楽のルーツを追っていくのは楽しいし、自分にとって新しい音楽を発見する事だってだくさんある。
けれどポジションの話なんてどうでもいい。
そのアーティストがシーンのどの位置に属していくのかなんて、純粋に音楽を聴く方からすれば知らんがな。
Mr.ChildrenにはMr.Childrenしか出せない音があるし、他のアーティストも同じだ。
彼らは今でこそ音楽シーンの一角として代表的なアーティストなんだろうけど、デビュー当時は確実に『新しい存在』だった。
多くの偉大なる先人たちに影響は受けていても、自分たちの力で売れようとする野心があり、多くの人に音楽を聴いてもらいたいという純粋な気持ちがあった筈。
『誰かになりたい』という気持ちではなく『あの場所に立ちたい』『こんな自分で在りたい』という強い願いが、今も音楽界のトップを走り続けられている理由じゃないのだろうか。
だからこそ、そのオリジナルな姿に人々は魅了され続ける。彼らの音楽に触れ続ける。
僕の好きなアーティストにTRICERATOPSとGRAPEVINEという二組の素晴らしいバンドがいる。
この二組はデビューから間もなくして、ポストMr.Childrenとよく形容されていた。
はっきり言って主たる音楽のルーツも大きく違うし、演奏だって彼らの方が上手い笑
けれどメディアは盛り上げ、売る為に形容したがる。
そんな形容とは関係無く、僕はこの二組が大好きだ。
踊れるロックを鳴らし、聴く者の体と心を揺らし続ける最高の3ピースバンド。
シーンと絶妙な距離を保ちつつ、自分たちのロックを表現し続ける唯一無二のロックバンド。
このポスト形容に関して、バイン田中兄貴はこう話している。
田中:ああ、ありました。でも、それは逆に武器だって思った覚えがあるな。売れるもんなら売れるに越したことはないだろうっていうことは思ってたし。「ポスト・ミスチル」って言われたことに関しては「よっしゃ、言うとけ言うとけ」っていう感じでした。そんなにイラっともこなかったな。
トライセラ和田×バイン田中が語る、ロックバンドの美学(前編)「お互い違う場所で切磋琢磨してきた」ページ中より引用
粋だ。そしてこの余裕。
この感じが、周りに何と言われようと自分たちの音楽を貫き続けられ、音楽リスナーに長年支持される理由だと思う。
そしてトライセラのワダショー。
桜井和寿と共作した『STAND BY ME』についてのインタビューで、彼はこう語っている。
桜井さんみたいな人がいて俺みたいな人がいていろんな人がいてこのロック界が成り立ってる、その面白さも感じたし。
いわゆる、すべてを兼ね備えた数少ない人。全部が一級の人ってなかなかいないじゃないですか。僕は一通り見させてもらったので、「あ、この人がそれだ」っていうのは確信した。
TRICERATOPS – 4年3か月ぶりのアルバム『SONGS FOR THE STARLIGHT』をリリース。Disc2に収められたMr.Children桜井和寿と組んだバンド、Quattro Formaggiの楽曲「STAND BY ME」のことも併せて和田 唱が語る。 ページ内より引用
誰かが形容し似せなくても、本人たちは影響しあい高め合って良い物を生み出し続けている。
そして何よりハッキリと、それぞれの志とプライドを持っている。
そこには勿論リスペクトがあり、『自分の力』を信じているからだ。
今回の引用したポストについての記事では『浜田省吾』『Mr.Children』『あいみょん』の関係性について書かれている。
勿論それぞれを知らないリスナーが音楽の系譜を辿っていき、知らない世代や新しい音に触れるのは素晴らしい事だ。
けれどその音楽自体ではなく、系譜やカテゴリを語って中身があるような音楽評論をするのは、はっきり言って野暮ったい。
僕らが必要としているのは、上から俯瞰して見た系譜ではない。
ヘッドフォンから、耳の中に入ってくる音だ。
心に響く、その人にしかできない表現だ。
立ち位置ではなく、僕は聴きたい音楽を音で探していく。
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